一
静かにたゆたう灰色の天。その濃淡の移り変わりを眺めていたポッポルは、怪しい動きを始めた一点に気づき警戒を強めた。
普通は灰色の暗い部分も明るい部分も範囲が狭く、絶えず乱雑で変化するため一定しないものだ。それが同じ濃さが大きくなったり線状に繋がったり、渦を巻いたりする時はバズロッタが攻めてくる前触れだった。ポッポルは愛用の棍棒を握り締めた。
指笛を吹いて皆に知らせつつ異常点の下へ駆ける。が、どうも妙だった。最初は渦を巻くかと見えたものが、白い輪になって大きくなっていき、また中心に新たな白い輪が出来て大きくなっていく。大きくなり過ぎた輪は形が崩れて消えるが、また新たな輪が出来るので同時に七つほどの輪が見えていた。
もしかして、バズロッタとは違うかも知れない。これまで見たことのない敵が現れるかも。或いは、敵以外の……。考えるうちにポッポルはドキドキしてきた。怖さよりも、興奮の方が強かった。
同じテールの者達が集まりつつあった。皆重なる輪を見上げ緊張している様子だ。彼らに先を越されたくなくて、ポッポルは加速して先頭を切った。
輪の中心がプックリと膨らんで、何かが出てきた。角張っていてやはりバズロッタとは違う。
天から生まれ全体を現したそれは、四角い箱のようなものだった。仲間達が戦いの際に作るコロックくらいの大きさで、灰色のドロドロしたものが絡みついていた。天の成分とは違い、もっと細かくザラザラした感じだ。バズロッタはもっと黒いしトロン、ポヨンとした感じだからやっぱり違う。
箱の中に人らしき影が見えて、ポッポルはドキリとした。他の者達もざわついている。
まさか、天の向こうから人がやってくるなんて。
天の向こうに何があるのか、探索に飛び込んだ冒険心溢れる者は何人もいた。しかし、誰一人として生還せず転生もしなかった。その天から誰かが、やってきたのだ。もし過去に飛び込んだハルモの住人が帰ってきただけだとしても、とにかく話を聞きたかった。
と、箱が真っ直ぐに落ちてくる。このままだとかなりの勢いで地面にぶつかるな、と思っていると、箱の中から一人飛び出してきた。空中を駆け下りて箱より早く着地し、落ちてきた箱を片手で受け止めた。見事に衝撃を殺しており本人にも箱にもダメージはないようだ。体技の修練を相当積んだのだろう。
丁寧に箱を横向きに置くと、中から新たに二人出てきた。それから箱に絡みついていたドロドロしたものが消え、次の瞬間にはまた一人増えていた。全部で四人。姿形がハルモの民とはちょっと違うし着ている物も違うし気配も違う。本物の来訪者だ。
ポッポルは真っ先に駆け寄り話しかけようとしたのだが、相手方の一人が片手を上げた。
<ちょい待て。それ以上近づくな。話は出来るか>
何か言ってきたが聞き取れない。ポッポルの知らない言葉だった。ただ、警戒と警告の雰囲気を感じ、ポッポルは立ち止まった。まだ棍棒を握っていたことに気づき、慌てて腰のホルダーに戻す。
「あの、あんた達は外から来たのかい」
尋ねてみるが、やはりこちらの言葉も通じていないようだ。
<未知の言語みたいね。ここがどの世界なのか確認中だけど、世界群地図が機能してないわ。重力係数と分子密度は重力一点集中型のベゼスノラクトに似ているわね。ただし、世界の規模がまるで違う。スキャンした限りでは、ここは球形の大地が直径千五百キロメートル程度しかなくて、大地から世界の外縁までは十五キロ程度で……世界にしてはかなり小さい方だけれど、術士が構築した亜空間にしては大き過ぎるし安定し過ぎてるわ。つまり……やっぱりここは、一つの世界で、ということは、新たな世界を発見したということに……>
<いやいや、住民いるじゃんよ。だから新発見でも何でもないだろ>
<おや、イユーンがどんどん小さくなってますね。ああ、可愛いのに、イユーンが消えていく>
一人がウニメルを大事そうに抱えて何か言っている。ウニメルは空気に触れると勝手に溶けていくから、消える前に食べないといけないのに。
<所長、イユーンじゃなくてィユーンだろ>
<ィユーンでもなくてィューン。小さく発音ね。いやそれは置いておいて。既存の世界として登録されていない訳で……いや、強力な魔術士がゲートを封鎖して長い間隠蔽していたという可能性は……無理ね。結局住民が転生するのだから世界の存在は必ずばれる>
何やら話し込んでいるので、ポッポルはもう一度声をかけてみた。
「あのー。もしもーし。俺はポッポルだ。あんた達は何者なんだい」
<ああ、ごめんなさい。まずは住民と話をしてみないとね。現地の言語セットがないから情報の吸い出しが必要になるわ>
よく喋っていた一人がポッポルに向かって手振りをしてみせた。両手をこちらに伸ばす。次に自分の頭を抱えるような仕草をする。また両手を伸ばす。それから改めてポッポルに手招きをした。
その頃には追いついた仲間達が五十人ほど集まっており、ポッポルが尻込みしていると別の奴に先を越されるだろう。だからポッポルは勇気を出して前に進み出た。
<ちょっと動かないでね。痛くはないから>
その人は細い手でポッポルの頭に触れた。ピリッと痺れのようなものが来て、ポッポルは恐怖を感じ慌てて跳びのいた。すぐさま仲間達に警告を飛ばす。
「心技だっ。この人は心技を使ったぞっ」
「何っ。操作の心技は禁じられているんだぞ」
「敵かっ」
仲間達が棍棒を抜いて来訪者達を包囲に動いた。何人かは氷技を溜め始めている。
他人の心を操る操作の心技は昔大流行してドロドロの洗脳合戦となったことがあり、以来禁止技となっているし、心技が使われたら気づけるよう皆対策していた。
だが仲間達の中からヘヤンが声を上げた。
「ちょっと待て。心技の気配はあったが敵意はなかったし、操作してやるという感じでもなかったぞ。操作の心技じゃあないんじゃないか」
ヘヤンは昔操作の心技を乱用しまくった一人なので、その主張にはある程度信憑性があった。
来訪者達の様子を見る。心技を使った者を庇うように、落ちた箱を受け止めた者が前に出ていた。何も武器を持っていないし技を溜めている気配もないけれど、いつでも戦えそうな体勢だ。心技を使った者は両手を軽く上げている。敵意はないと言いたいのだろうか。ただ、さっきまでは興奮していて気づかなかったけれど、この人は来訪者達を包み込む守護技を使っているようだ。箱から出てきた時からかも知れない。ウニメルを抱えていた者は食べるのが間に合わなかったようだ。残った一人はボンヤリと見守っているだけでまるで緊張感がなかった。
「うーん……心技だったけど、確かに操作の心技じゃあなかったかも知れない」
ポッポルが正直に言うと、仲間達はひとまず棍棒を下ろし、氷技の溜めも散らした。
来訪者が再び手招きをしてくる。ポッポルは改めて歩み寄り、相手が頭に触れるのに任せた。
心技のピリピリした感じは続いたが、相手の奴隷になりたいとか仲間達を殺したいとかのおかしな気持ちが湧き上がることはなかった。考えを探られている感じ、だろうか。ヘヤンが近くに立って見ているのはおかしな技が使われないよう警戒してくれているようだ。
暫くして来訪者は手を離し、咳払いを一つしてから喋り始めた。
「私の言っていることが分かりますか。あなたの頭から言語の情報を読み取らせてもらいました」
「おおーっ」と仲間達が歓声を上げた。
「分かるっ。ちゃんと聞き取れるぞっ。こっちの言ってることも分かるのかい」
ポッポルも喜びのあまり大声になっていた。
「分かります。よく使う基本的な言葉は通じるようになりましたが、分からない言葉があればそのたびに説明し合いましょう」
来訪者はそう言って微笑んだ。
それからは順調に進んだ。来訪者は理解が早く、通じなかった言葉もすぐ使えるようになった。最初はその人だけがポッポル達と喋っていたが、暫くすると言語情報が揃ったとのことで、他の三人にも心技を使い、全員がハルモの言葉を使えるようになった。
それでまずは、天の向こう、ハルモの外から来たという四人の素性についてだ。
四人は探偵社というグループだそうで、これは人に頼まれて色々なことをする仕事らしい。
心技を使ったのはラミア・クライスという名前だった。カザハラ・レイラともいうらしい。どうして名前が幾つもあるのか不思議だ。魔術士といって、心技だけでなく炎技とか守護技とかも色々得意らしい。髪が長く華奢な体格で、細かい模様の入った白い服を着ていた。こんな綺麗な服は見たことがなくて皆注目していた。「ウェディング・ドレス」というらしい。この先ハルモで流行しそうだ。
箱を片手で受け止めた者はローゲン、またはハガネ・ゲンジュウロウといった。屈強な体格で、隙のなさからも体技をかなり積んできたのが分かる。武器は持っていないが、腹や背中や膝から剣を生やしたり引っ込めたりしてみせたのはびっくりした。金属の武器を体内に作れるらしい。最初から剣を持っていれば済むのに、どうしてわざわざ苦労して毎回作っているのか不思議だ。
ウニメルを抱えて悲しそうにしていたのはコー・オウジ、またはオオジ・コウタロウといった。来訪者の中でリーダー格らしいが、全然強そうに見えない。というか指一本で倒せそうなんだが、訳の分からないくらい物凄い力を持っているらしい。彼らがここにやってこられたのもこの人のお陰なのだとか。太っていて全く鍛えていない体をしていた。ウニメルはすぐ食べないと消えてしまうことを教えてあげるとびっくりしていた。食べるつもりはなかったらしい。たまに群れが天から飛び出してくるので皆で踊り食いすることを教えるとまたびっくりしていた。ちなみにウニメルのことを彼らはィューンと呼んでいて、一匹しかいないと思っていたらしい。
最後の一人はカザハラ・マコトでアロロアで、キョウフノダイオウともいうのだとか。なんだかポカンとしている人で、話を聞いているのかいないのかよく分からない感じだった。強そうにも見えないけれど、実はこれまたメチャクチャな力を持っているらしい。背中に笑顔みたいな絵がついた奇妙な服を着ていた。
で、彼らはカイストという種族らしかった。カザハラははっきりしないらしいが。死んだ後に記憶と能力を持ったまま転生出来るのだとか。
「それって、普通のことでは」
ポッポルが突っ込むとまた驚いた様子で、ラミアとローゲンが顔を見合わせた。
「つまり、あなた方は皆、転生しても記憶と能力を持ち越している、と」
「そうだよ。嫌な思い出が増え過ぎたら全部忘れてやり直すけど。やり直しても他の人は皆俺のことを覚えてるから、昔やらかしたことでからかわれたりもするけれど、まあ少しは楽になるな」
それでまた二人は互いの顔を見合わせた。ポッポルの言ったことがおかしかったらしい。
「記憶を消したのに、他の人はあなたの見分けがつくのですか」
「感技を持ってる奴も多いからな。それに、俺が死んだ後すぐ生まれた奴が俺なんだから、分かりやすいだろ」
「……ここは、私達の知る世界とは随分違うようですね」
ラミアは興味深そうに言った。
仲間達はどんどん集まって千人以上となり、騒がしい中で情報交換が進んだ。
彼らはハルモのことを「世界」と呼んでいるのだと最初思っていたのだが、他にもハルモみたいな場所が四千もあって、それぞれに名前がついているらしい。そういう場所をひっくるめて世界と呼び、彼らはそのうちの一つ、イリアという世界からここまで来たらしい。
四千の世界はそれぞれゲートという通路で繋がっていて、カイストはゲートを使って別の世界に行ったり出来るらしい。
それぞれの世界はちょっとずつ性質が違っていて、人が住むのに厳しいところもあったり、物凄く広い空に丸い大地が幾つも浮かんでいて、それぞれに人が住んでいるような世界もあるらしい。一つの世界に物凄い数の人が住んでいて、少ないところでは一億くらいのところもあるが、多いところだとその十万倍を超えるとか。ポッポルには数の大きさがちょっと想像出来ない。
「ハルモには何人いたっけ」
「沢山いるけど……六万くらいだったか」
「あんまり数えたことないしなあ」
など話していると物知りのバーゴーが言った。
「二百七十六ローツ前に数えた時は六万五千五百二十一人だった。それから何人か減っているようだが、正確な数はまだ確認していない」
バーゴーは神の代替わり時に皆と同じく記憶を消してやり直したが、それ以降は一度もやり直さずに膨大な記憶を持っている。それだけでなく色んなことを調べては紙に記録していた。戦う技でなく感技ばかり磨き、倉に書物を溜め込んだ変人だ。
「割と多いな」
「うん、沢山だ」
などと仲間達は頷いていた。
「微妙に惜しい数字ですね」
コー・オウジがよく分からないことを言っていた。
ポッポルも多いと思う。実は顔を見ても名前がパッと思い出せない奴もいるし。なのに、四千世界というところはそれよりもっともっと、ずっとずっと人が多いらしいのだ。それは、大変なことじゃないか。
「四千世界というのはそんなに人が多いのなら、誰が誰やら覚えきれないんじゃないか」
別の仲間が言い、ローゲンが答えた。
「覚えきれんし、そもそも覚えても意味がない。カイストじゃなきゃあ、死んで転生するたびに記憶も力もなくなってる訳だからな。ただの見知らぬ他人が圧倒的多数で、それが普通なんだ」
知らない奴ばかりがいるとか、ポッポルにはとても恐ろしいことのように思えた。ポッポルの周りは知り合いばかりだし何度死んでも知り合いだ。仲がいい奴とはずっと仲がいいし、反りが合わない奴もいるがどんな奴かも分かっているから適度に距離を置いている。カルツァルで敵同士となって殺し合っても、そういうものだと皆分かってるから割り切れるし互いに恨みを抱かないのだ。全く知らない相手とどうつき合えばいいのか。
ただ、未知の人物を相手にするというのは、ドキドキすることでもあった。丁度今みたいに。記憶を全部消したばかりの頃のドキドキを、百倍にも強くした感じだ。
で、カイストが転生しても記憶と力を持ち続けるには強い目的意識……よく分からないがとにかく強い心が必要らしい。力を手に入れるためには大変な修行を長く長く続けないといけないとも。
ハルモの住民は別に強い目的がどうとかなくても勝手に記憶も力も残る。練習すれば普通に氷技も炎技も使えるようになる。
カイストが修行で少しずつ増やしていく力を我力というらしい。ハルモの住民にそんなものはないが、勝手に溜まっていくムームならある。これは天から絶えず降り注いでいる恵みで、感技の優れた者なら小さな光の粒が見えるらしい。
体の中に溜まったムームでハルモの住民は技を使い、上達していく。技を連発して体のムームが空になっても大体三回も眠れば元通りに回復する。でも体に溜められるムームには限度があるし、技の上達する程度も一人の合計量が決まっているようだ。だから一つの技だけを鍛えた方が強くなり、色んな技に手を出すと器用だけど頼りない奴になってしまう。それで鍛え方に失敗したと思ったら、記憶はそのままで力だけ捨てて鍛え直すことも出来る。バズロッタに対抗するため、氷技と打技を鍛えている者が多く、ポッポルも棍棒の打技に体技主体でちょっとだけ氷技を持っている。
バズロッタというのはたまに天から攻めてくる敵のことだ。麦粥みたいにドロッとした生き物だが真っ黒で、天からドバーッと垂れてくるとある程度でちぎれて何十匹にも分かれて襲ってくる。作物も土も人も食べてしまうのだ。表面はなめらかで、トロンとしているがとても弾力があり、そのままだと剣も棍棒も効かない。でも氷技をかけると固まって動けなくなり、その時にぶっ叩くと砕け散って殺せるのだ。粉になるまで丁寧に叩き、鍋の出汁にするがちょっと酸っぱい。
住民が大型のバズロッタに呑み込まれて死んだ場合、そいつをちゃんとやっつけて死体を取り戻さないと転生出来ないことがある。なのでバズロッタが来た時は住民総出で迎え撃ち全力でぶち殺すのだ。やはり棍棒が一番だな。後、土技でコロックを作りその中に篭もってから氷技を使うことも多い。
ラミアによると、もしかするとバズロッタというのは彼らがトットゥットロートゥットと呼ぶ怪物かも知れないということだった。大きな塊からちぎれて分かれるから全体で一つの生き物かも知れないとも。世界の外にいる生き物で、そっちでは世界の中には入ってこないらしい。
バズロッタ以外の危険な敵というのは特にいない。でも常に鍛えていないといざという時に戦えないから、定期的にテール同士でカルツァルを行う。テールというのは同じ場所で一緒に暮らす集まりのことで、カルツァルは決まり事のある戦いだ。特に百ローツに一度行われる大カルツァルで一位になったら次までの百ローツ間そのテールは他から尊敬されるし威張っていられる。カルツァルでは死人も出るが、そんなに険悪なことにはならない。皆知り合いだし、生まれ変わった結果他のテールに移ることも多いのだから。
ローツというのは時の節目のことだ。天から降り注ぐムームが大地に溜まり過ぎると、お返しに大地の何処かがムームの塊を天まで噴き上げるのだ。それが一ローツなのだが、次のローツまでの長さはまちまちで多分倍くらい違う。けれどポッポル達にとってはまあ意味のある目安だ。
来訪者達から言われた一日という単位については意味が分からなかったが、辺りが明るい時間と暗い時間がはっきりと分かれているところではその変化が節目になるらしい。ハルモはいつも天が灰色でボヤボヤしているのではっきりした明るさの違いはない。皆好きな時に眠って好きな時に起きる。なので一寝とか二寝とかの言葉は使われるけれど、これも人によって寝る長さが違うのできちんとした目安にはならない。まああまり細かいことを気にしなくても問題ないのだ。
まだまだ知りたいこと、教えたいことは山ほどあったのだけれど、ローゲンが言った。
「ところで、あんたらに聞きたいことがあるんだが。『彼』って人を知らないか。名前がなくて、物凄く強い人だ。ひょっとして、俺達よりずっと前に外から来てたりしないか。俺達がここに辿り着いたのはそういう意味があるんじゃないかって思ってるんだ」
ポッポルは仲間達と顔を見合わせた。よく分からないが、大昔に天の向こうから来た、物凄く強い神はいる。
「アダール・モアのことだろうか。ゴザーズ・モアから代替わりした神様だ」
ポッポルに続いて物知りのバーゴーが説明した。
「四千百万ローツ前に天の向こうから来た神はいる。言葉が通じなかったので名前のことは分からんし、今も言葉は通じん」
「取り敢えず、会わせてくれないか」
ローゲンが言った。
二
ハルモに神はいる。一番偉くて一番強くて特別な者をポッポル達は神と呼んでいる。
ずっとずっと昔、ゴザーズ・モアと呼ばれる神がいた。邪悪な神で、毎寝沢山人を食べた。目一杯苦しめて生きたまま食べるのが趣味だったという。住民は抵抗しようとしたが神は物凄く強かったので敵わなかった。この頃が凄く痛くて苦しくて辛かったため、皆記憶を捨ててしまいゴザーズ・モアの神代より前の歴史は曖昧となっている。
しかし、ある時天の向こうから新しい神が現れたのだ。いやいつの間にかハルモにいたのだけれど、これまではいなかったのだから多分天の向こうから来たのだろう、ということになった。
新しい神は何も持たず、ただ草原を歩いていた。ゴザーズ・モアから逃げ惑う人々が声をかけたが無視して歩き続けたという。後で判明したが言葉が通じていなかった。
そして人々を追いかけてきたゴザーズ・モアが新しい神を襲い、返り討ちにされ八つ裂きになり跡形もなく食われたという。ゴザーズ・モアはそれきりハルモに現れることなく、人々は新しい神を勝手にアダール・モアと呼ぶことにして、崇めることにしたのだ。
アダール・モアはペノール山の神殿に住んでいる。ポッポル達が喜んで案内しようとすると、来訪者達はコロックみたいな箱に入っていった。驚いたことに箱が地面の上を滑って移動するのだ。コー・オウジは走るのが苦手なのでそういうものを使うらしい。天の向こうの大変なところを渡ってこられたのも半分はこの箱のお陰だとか。ミラクルウルトラワンダー号という名前で、中に暫く住んでいたらしい。
ミラクルウルトラワンダー号を先導してポッポル達が駆けると、噂を聞きつけた住民がどんどん増え、他のテールの者まで集まってきてペノール山に着く頃には二万人を超えていた。つまり、ハルモの住民の三分の一が集結した訳だ。
カルツァルより派手なお祭り行進は山の麓まで続き、箱を下りた来訪者達は皆に見送られながら神殿への道を上る。同伴するのはポッポルとバーゴー、それにポッポル達が所属する草のテールの長オトゥローと、事情を聞いた山のテールの長キーゼムだった。コー・オウジは途中からローゲンが背負っていた。
ペノール山の頂上はハルモで一番高くて眺めの良い場所だ。山のテールに所属している時か、カルツァルの優勝チームに入っていた時くらいしかここに来るチャンスはなく、ポッポルが神に会うのは山のテールだった十数回前の人生以来だ。
花の咲く庭の奥に白い三角形の屋根があり、その下に神の座る石造りの椅子があった。
二人の神官役に寄り添われ、アダール・モアは静かに座っていた。
くたびれた感じの帽子とマントをいつも着けていた。山のテールの民が新しい服を献上しても、いつの間にか元の服装に戻っているのだ。
迫力や威厳はなく、座ったまま寝ていることもあるし、起きている時もボンヤリしていることが多い。あまりに大人しいので勝てると勘違いした馬鹿が襲いかかり、返り討ちで粉々になって二度と転生しなかったということも、昔はちょこちょこあった。今は、平和なものだ。
ハルモの住民はなんとか言葉を覚えてもらおうと伝達の心技まで使って努力したし、アダール・モアも分かって欲しそうに何やら喋ることがあったが、どれだけ経っても結局通じないままだ。アダール・モアにはどうやら記憶力がないのではないかと疑われていた。それとも、人に興味がないか。でも、神殿を出ていこうとした時に神官達が泣いて引き留めると諦めて戻ってくるから、興味がないという訳でもないかも知れない。
アダール・モアは今、起きていた。来訪者達に気づいた様子だがやはり黙って静かに見ているだけだ。
来訪者達の方は、ラミアはどうも迷っている感じで首をかしげ、コー・オウジとカザハラは平然としていた。ローゲンが緊張した様子でじっと観察している。
彼らは行方不明になった『彼』という人を実はよく知らないのではないかとポッポルは思った。
少しして、ローゲンが決心したように力強く足を踏み出し、アダール・モアの目の前に立った。
<あんた、『彼』か>
ローゲンがポッポルの知らない言葉で呼びかけるが、アダール・モアは答えない。ただ見返している。
<『彼』。名のない男。荒野。殺戮神。無限牢を破った男。覚えがないか。アノラ語がダメならサナンサラ語と委員会公式言語は……いや、その前に、オアシス会はどうだ>
アダール・モアがモソリと動き始めた。今の言葉に反応したのかと思ったら、ゆっくりと横の神官の方を向いて片手を伸ばす。あれは飯が食べたい時の仕草だとポッポルは知っている。山のテールでほんの一時だけれど神官だったこともあるのだ。
<ダメかよ。もう一度言うぞ。オアシス会。……やっぱダメか。なら幹部の名前はどうだ。ディンゴ。ミレイユ。ルーン。カ・ドゥーラ。ディンゴ。ロゾム・ハザス。キダフェル・パレクトス。ディンゴ。シド・カイレス。ディンゴ。ああそうだ、レナ・サランヴェール。どうだ>
ローゲンは何やら単語の羅列を始めた。
途中でアダール・モアがヒクリ、と眉を上げた。それでいよいよ動き出すかと思ったら、ゆっくりと首をかしげ、考え込むように自分の顎を撫でる。神官の一人は神殿を出て料理を取りに駆けていった。
「うーむ」
アダール・モアが唸った。話が伝わらなくて困った時に神はそうやって誤魔化すことがあるので、あまり信用出来ない。
<荒野にオアシスを作る会。セカンド・オアシス。会長。兄貴。大兄貴。長兄。カイスト。四千世界。『鋼鉄の男』ディンゴ。『百目』ミレイユ。『移り火』カ・ドゥーラ。『隻眼影』ルーン。『おっ母さん』ロゾム・ハザス。『大剃刀』シド・カイレス。『殴り守護神』レナ・サランヴェール。どうだ。ピンと来たか>
アダール・モアの眉が今度はひそめられ、真剣に悩んでいるようにも見えるが、やはり「うーむ」しか出ない。
<人違いかよ……。俺は会ったことねえしなあ。いや、姿はかなりそれっぽいと、思うんだが……。うちの幹部か検証士を連れてくりゃ良かったぜ。いや、でも所長の導きでここに来たんだから、多分合ってると思うんだよなあ……>
ローゲンが仲間達を振り返る。ラミアは何故か呆れた顔をしているし、コー・オウジはニコニコしている。カザハラはしゃがんで石の床を眺めていた。
<じゃあアノラ語でもう一周しとくか。ディンゴ、ルーン、ディンゴ、ディンゴ、カ・ドゥーラ、ルーン、シド・カイレス、ディンゴ。あー、これも言ってみるか。『泣き男』レン>
<『泣き男』……>
急にアダール・モアが喋った。
<おっ、マジか。『泣き男』、レン。あんたが『彼』だとしたら、レンはあんたを殺した奴だ>
<そうだ。……そうだ。『泣き男』レンだ。俺は……レンなのか>
アダール・モアが何を言ったのか、ローゲンはずっこけそうになった。ただ、互いの話が通じ始めたっぽいことにポッポルとハルモの住民達は驚愕した。
<いやあんたがレンじゃなくて、あんたは『彼』。オアシス会の会長。俺はローゲン。オアシス会の新入りでディンゴ団の一人だ>
<ディンゴ……。そうだ。『鋼のディンゴ』か。お前はディンゴかっ>
<いや俺はディンゴの弟子ウギャッ>
アダール・モアが興奮して立ち上がりローゲンを抱き締めて爆裂四散させたように見えてポッポルはまたびっくりしたのだが、瞬きして見直すとローゲンは無事だった。飛んできた肉片を浴びたような気がしたのだが不思議なこともあったものだ。
<俺は、ディンゴの弟子の、ローゲン。で、あんたはオアシス会の会長で、名前がないから『彼』と呼ばれてる男。で、いいよな>
さっきまで立っていた場所から横にずれ、用心深く身構えてローゲンが言った。
<うーん。多分そうだっ>
アダール・モアが返事をして、それから今度はローゲンの方から抱き着いて、大声で泣き始めた。それに釣られたみたいにアダール・モアも泣き出した。
<いや、『多分』じゃダメでしょ>
ラミアが何か言っていたが、アダール・モアと初めて意思の疎通が取れる者が現れたことにポッポル達は感動して一緒に泣いてしまったのであった。
三
来訪者達と会話を続けるうちに、アダール・モアは昔のことを思い出してきたようだ。やはり来訪者達と同じところからやってきたらしい。
アダール・モアはラミアが頑張って心技を使ってもハルモの言葉を習得出来ず、神が語った内容は来訪者によってハルモの言葉で住民に伝わった。ローゲンが言うには、神は頭の働きが、その、あまり、よろしくないらしいのだ。神はどうやら、ハルモの住民達のことをご飯をくれる不思議な人達だと認識していたらしい。四千百万ローツの間、ずっと。
元々名を持たなかった神は、向こうの世界でオアシス会という大きな組織の長だったらしい。色々と大偉業を達成した最強の神だったという。
それが『泣き男』の異名を持つレンという男と戦い、相討ちになって初めて死んでから、転生して戻ってこないので大騒ぎになったのだという。どうやら死んだ時に吹っ飛び過ぎて、向こうの四千世界という領域から外れてこちらのハルモに飛んできたということらしい。ハルモの住民にとっては恐ろしい神を倒して代替わりしてくれたので、非常にありがたい話であった。
神は自分に初めて勝った相手がいることを喜んだのだが、相討ちだったので正式な勝ち負けにはならず、レンは最強一位の座を貰えなかったらしい。それを聞いて神は何故か残念そうにしていた。
神殿に留まってもらって神官がずっと侍っていたのはローゲンによると良い対応だったらしい。神は放浪癖があってついフラリと出ていってしまうけれど、寂しさが募ると頭がおかしくなって殺戮に走る癖があるのだそうだ。神というのはやはり恐ろしいものだ。
「死んでからずっと独りで過ごしてたら、見つけた時にどうなるか実は心配してたんだ。あんたらが世話しててくれて助かったよ」
ローゲンが苦笑していた。
それからカザハラと神は大昔に因縁があったらしい。ローゲンによると、神がカザハラを一度殺したらしいのだが、そのことを神もカザハラも覚えていなかったし互いに気にしていない様子だった。
それで、仲間達が待っているので元の世界に帰ろうとローゲンが言い、神も同意したためまた大騒ぎになってしまった。ハルモから神がいなくなってしまったら一体どうなってしまうのだろう。その頃には皆で山を下りて麓の村に集まっていたので、ポッポル含めて大勢の住民が悲しみと不安で泣き叫んだのだった。ローゲンも神も困惑していた。
そうしたら、ミラクルウルトラワンダー号から何やら丸くて平たい食べ物を持ち出して一人で食べていたコー・オウジが、「なら皆さんも一緒に私達の世界に移住しますか」と言い出したのだ。
「そんなことが出来るんですか。どうやって」
ポッポルが尋ねると、コー・オウジはラミアを指して言った。
「方法は彼女に考えてもらいましょう。大丈夫ですよ、彼女はとても有能な魔術士ですからね」
皆で一緒に天の向こうにある別の世界へ。ハルモよりも広くて、沢山の世界があるらしい。本当にそこへ行けるのだろうか。
ハルモを離れるということに不安はあったが、ポッポルはそれよりも胸の奥が熱くなるのを感じていた。
ずっとハルモで生きてきた。見知った人達とずっと同じことばかりを繰り返してきた。飽きてうんざりしたら記憶を捨てて、でもまた同じことの繰り返しで飽きることも分かっていた。ほんの少しずつ、自分の心がすり減っていくような気がしていた。
だが、天の向こうに新しい世界があるのだ。見知らぬ人達が大勢いるのだ。きっと新しいことが待っているのだ。その期待に、ポッポルはドキドキしていた。
ラミア・クライスがなんだか嫌そうな、複雑な顔をしていたのがちょっとだけ気がかりではあったが。
四
来訪者達による調査と情報交換が続いた。
ラミアによるとハルモは『閉じた世界』らしい。彼らの住む四千世界では、死んだら四千ある世界のうちの何処かに転生する。同じ世界に転生したり、繋がり的に近い世界に転生する傾向はあるが、とにかく一つの世界に縛られない。でもハルモは住民が死んだらまたハルモに転生して、新しい人は現れないし、基本的に外に出ていかない、出ていけない。
四千世界というのを全体で一つの独立した閉じた世界と考えると、ハルモはハルモだけで一つの独立した閉じた世界ということになるらしい。
「四千世界というのは、混沌の荒波に浮かぶ儚い小舟だそうよ。それ自体が奇跡のような存在で、貴重なものだって。でも、実はもう一つ小舟はあったということになるわね。いえ、もしかすると、行けないから見つかっていないだけで、他に幾つも小舟は存在するのかも。四千世界を揺るがす凄い発見だと思うわ」
ポッポルにはよく分からないことをラミアは興奮気味に話してから、フッと力を抜いて、自嘲のような笑みを浮かべた。
「ただ、正直なところ、私の手に余る案件ね。所長に指示されたからには全力を尽くすし、きっと成功するのでしょうけれど」
「僕も頑張って手伝いますからっ。妻のサポートをするのは夫として当然ですよねっ」
カザハラが妙に張り切って声を上げた。
ラミア・クライスの別名にカザハラというのがあって名前がかぶっているのでどういうことか尋ねると、二人は結婚して夫婦になっているらしい。夫婦というのは二人組でずっと仲良くしていく関係なのだそうだ。どうして決まった二人組になるのかポッポルには分からなかった。他の人と仲良くしないのはあまり良くないんじゃなかろうか。
ラミアは物知りバーゴーが大事にしている書庫に入れてもらって色々調べ、他の住民にも話を聞き、ハルモ中を何周もして他のテールの人にも話を聞き、空を歩いて灰色の天の近くで調査し、植物や湖の魚を調べ、地面に穴を掘って深く潜った。
カザハラは大抵それについていった。ローゲンは神のそばでよく話をしていた。コー・オウジは箱から取り出したピザという食べ物を食べたり、ハルモの住民に分けてくれたり、ハルモの食べ物を食べたりした。ピザをポッポルも食べたがモニュッとした不思議な味がした。ハルモの食べ物をコー・オウジは美味しい美味しいと言って沢山食べた。
それで百寝くらい経った頃に、ラミアはひとまずの結論を出した。
ハルモというこの世界について、ラミアは作為を感じるのだという。何者かが意図を持って設計した世界ではないかと。
人が人にしか転生しないのがおかしいという。魂……人の中身のことをこう呼ぶらしいが、本来は他の動物とか植物とか、小さな虫とかにも転生する可能性があるものらしい。もっともっと小さな、砂粒の欠片の欠片に転生する可能性だってあるかも知れないのだとか。そもそもムームを利用出来るのが人に限定されているのも作為的なのだと。
そして地上には虫以外に動物はおらず、川や湖には魚以外いない。植物も種類が少なくて、自然な時間経過でここまで変化がなく多様性が出ないのはまたおかしいのだという。ハルモの住民も雌雄同体で、自分とタイプの違う相手をなんとなく選んでなんとなく交接するのは体質を混ぜて平均化する無意識の欲求であり、結果、どれだけ時が経っても生物として進化していないと。
そもそも環境が安定しており、住民はムームを使って様々なことが出来るため進化する必要がないのかも知れない、と前置きした上で、ラミアは続けた。世界が変化しないように管理して操っている存在がいるかも知れない、と。そうでなければ、世界を創った者がそこまで計算して設計した可能性もある、と。
世界を管理している者というのは神とは違う存在らしい。少なくとも今の『彼』と呼ばれる神ではないし、前のゴザーズ・モアでもないだろうという。そして今のところ、管理者の存在を感じ取れないともラミアは言った。
まあその辺の難しい話はポッポルにもよく分からなかった。ただ、このままではハルモは滅ぶだろうとラミアは断言した。アダール・モアが去ってしまうせいではなく、単純に、人が増えず、何かの拍子に少しずつ減っていけばいずれは誰もいなくなるという話だ。実際にはその前に、ある程度まで人が減った時点で外から攻めてくるバズロッタに対応出来なくなり一気に滅ぶだろうとも言った。
皆が薄々感じていたことを来訪者にズバリ指摘されてしまい、ハルモに愛着があって移住に抵抗があった人々も心が傾き始めていた。
そして、ラミアが提案した移住策に皆驚愕することになった。
「全ての住民を生きたまま連れ出すのは困難ですし、死んでいてまだ転生出来ていない者が取り残されてしまう可能性もあります。ですから、私の夫、風原誠がこのハルモという世界全体を包み込み、混沌の海を泳いで四千世界の領域まで引っ張っていきます。そして皆さんはハルモごと四千世界に合流・移住します」
ポッポルも含め、皆ポカンと口を開けて信じられないといった顔になっていた。というかラミアの仲間のローゲンもポカンと口を開けていた。
「ほ、本当にそんなことが出来るのか。そんなことで、うまくいくのか」
草のテールの長のオトゥローが叫ぶように問うた。
「きっとうまくいきます。私の夫は元々世界の外の混沌領域に住んでいた強者です。そして所長のコー・オウジは偶然の支配者です。出発したイリアという世界に私は目印となるアンカーを設置しています。今は遠過ぎて感知出来ませんが……おそらくは、ある程度近づけば分かる筈です。そこを目指してハルモごと移動します。取り敢えずやってみれば、きっとうまくいきます」
ラミアは自信満々に……いやなんか微妙な顔で、何だろう、ヤケクソになってないか、あの人。
<俺は何をすればいい>
神が手を上げて何か言った。ラミアは笑顔で神に通じる言葉で応じ、それから内容をポッポル達にも説明してくれた。
「あなたが動くとハルモの重心がずれる恐れがありますから、ペノール山の神殿でのんびりしていて下さい」
それからラミアは真剣な表情でローゲンとハルモの住民につけ足した。
「『彼』の伝説は私も聞いています。いつの間にか別の世界の荒野に移動していることがあるそうです。ただ、今このハルモから出てしまうと何処に飛ぶか分かりませんし、再び行方不明になってしまうかも知れません。ですから、皆さんは『彼』にしっかりついていて、逃がさないようにして下さい」
ローゲンは重々しく何度も頷いていた。
来訪者達は改めて段取りを話し合い、カザハラは笑顔でラミアに言った。
「では、行ってきますっ」
カザハラの姿が灰色になってグニャリと歪んだように見え、次の瞬間には消えていた。神はローゲンと神官達に引っ張られて神殿へ戻っていった。ラミアは左手の指輪に何やら囁きかけていた。コー・オウジはニコリとしてポッポル達に言った。
「お腹が空いてきましたから食事にしましょうか」
コー・オウジの体がミチミチと鳴って、見ている間に痩せていった。慌てて皆は料理を作り始めたのだった。
一寝も経たないうちに、ハルモの住民は奇妙な揺れを感じ始めた。ムームが天に噴き戻るローツの時も大地が少し揺れるが、それとは違う感じだった。住民の体自体も揺れている感じなのだ。大地に揺らされているのではなく。天の灰色の濃淡の動きもおかしかった。
「移動が始まったわ」
指輪を耳に当てて語るラミアは目をギラギラと光らせていた。
人々は畏怖と歓喜の混じったどよめきを上げた。
それからは大きな変化もなく時が進んだ。住民の殆どがペノール山周辺に集合し、テール同士でいがみ合うこともなく来訪者の話を聞きたがった。
コー・オウジは寝ている時間以外は食べてばかりいた。体が太ったと思うとまたみるみる痩せていくのが不思議だった。この人は食べながらたまに四千世界の出来事を語ってくれるのだが、なんだか凄い奴がいて、なんだかひどいことが起きて、でもなんだか訳の分からないことが起きて最後は善人が幸せになるというパターンが多かった。たまたま通りかかった神が悪い奴をやっつけてくれたとか、病気を治す薬がたまたま道に落ちていたとか、天から降ってきた石が悪い奴に当たって倒したとか、敵の軍勢の一斉攻撃が互いにぶつかり合って自爆したとか、四千世界とはそんなに訳の分からないことばかり起きるのだろうか。
ラミア・クライスはよく指輪に話しかけていた。知らない言語なので内容ははっきりとは分からないが、どうも励ましているような感じだった。ラミアが語る四千世界の歴史は興味深いものだった。成立は六百億年……ハルモの単位でおそらく八十億ローツ以上昔であるが、多くの学者が研究してもどうやって出来たのかは結局分からないという。世界は時間と空間、そして法則を持つが、その外側には無限の混沌が広がっているらしい。無力な人が工夫によって文明を築き上げ、そして科学が進み過ぎると滅んでしまう。それを延々と繰り返しているらしい。人の中から強い意志を持つ者達がカイストになり、転生後も記憶と能力を持ち越す。そうでない普通の人は何もない状態から毎回やり直している。力を持て余したカイストは戦争を起こし、一つの戦争が十五億ローツくらいずーっと続いていたこともあるとか。カイストが好き勝手して力を持たない人達に迷惑をかけるので、カイストを取り締まる巨大な組織があるという。ただその組織も横暴なところがあって、今は無限牢という恐ろしい牢獄を使って逆らうカイストを滅ぼしているらしい。ポッポル達ハルモの住民にとっては恐ろしくもあり、ワクワクもする話であった。
ローゲンは神殿で神と一緒にいることが多かったが、よく戦いの話をしてくれた。四千世界で最初に最強と言われた、剣一本の上段斬りだけで全てを倒すカイストの話。それを倒して最強となった『彼』の話。『彼』が現れた時には大暴れして十四の世界を滅ぼしてしまったという。なら四千世界は三千九百八十六世界になってしまったのかと物知りバーゴーが質問し、ローゲンは苦笑しながら首を振った。暫く経つと滅んだ世界の代わりに新たな世界が生まれたのだという。また、四千世界と呼んでいるが実際の世界の数はそれよりちょっと多く、人が住めないけれどカイストなら行けるような世界もあるらしい。人が住むのが難しかった世界をオアシス会という『彼』の組織が調整して、セカンド・オアシスと名づけてアジトにしているという。オアシス会の幹部であり『彼』の義兄弟であるという強者達の話もしてくれた。高速で飛ぶ物の軌道を自在にねじ曲げるディンゴという戦士。気配を完全に消して敵を殺す片目のルーン。大軍勢だろうが大陸だろうがまとめて真っ二つにするシド・カイレス。なんだかよく分からない術を使うキダフェル・パレクトス。他人の体に寄生して術を貸し出す、楽したがりのカ・ドゥーラ。仲間の力を強化し、死者の魂を保護してくれる優しきロゾム・ハザス。沢山の目を飛ばしてあちこち覗き回るミレイユ。彼らが殲滅機関という八人の強者と対決する話は誰もが夢中になった。『彼』が無限牢をぶち破りオアシス会が出来た話も聞いた。だが、『彼』がいなくなってハルモで神となっている間に、再び無限牢が作られて大変なことになっているらしい。『彼』が四千世界に戻ったらその無限牢を作った文明管理委員会という組織と戦争になるだろうということだ。
カザハラ・マコトはハルモ全体を抱えて移動しているということで、姿を見ることはほぼなかったが、たまーに上半身だけとか頭だけがラミアの前に現れて会話していることがあった。そんな時のカザハラはニコニコしていて、ラミアも同じくらい笑顔だった。なるほど、夫婦とは確かに仲が良いものらしい。
四千世界に合流すると、ハルモの住民はムームを失い技を使えなくなる可能性が高いとラミアは忠告した。また、今後は転生したら過去の記憶をなくしている可能性も高いと。だから現地に着いてもはしゃいであっさり死んだりしないように気をつけること。すぐ偉い人を呼んでひとまず保護してもらうので、大人しくしていることを何度も指示された。「幼稚園児を遠足につれていく先生みたいだな」とよく分からないことを言ってローゲンが笑っていた。
途中、何度かバズロッタの襲来があった。カザハラが追い払ったり食べたりしてくれているらしいが、たまに迎撃が追いつかずに侵入されてしまうということだ。ポッポル達は来訪者に良いところを見せたくて頑張った。氷技で固めて棍棒で砕き壊し、鍋に入れて来訪者達に提供したら喜んでいた。彼らの言葉でトットゥットロートゥットという希少な怪物を食べる機会などなかったらしい。味の評価は微妙だった。
彼らがィューンと呼ぶウニメルの群れも入ってきた。ポッポル達が踊り食いするのをラミアは嫌そうに見ていたが、コー・オウジはオトゥローが一匹渡すと喜んで踊り食いしていた。
百寝経ち、千寝経ち、ローツが何度か起こり、まだ移動は続いていた。来訪者達の様子は変わりなかったが、ただコー・オウジだけは皮膚の皴が増えていった。年を取っているのだという。ハルモの住民はムームのお陰でいつも健康だし調子が悪くなっても治癒技を使えば治るから、時間が経つだけで弱っていくというのが分からない。しかし、人というのは時が経つと自然に衰えて死んでいくもので、コー・オウジはそれに逆らうつもりはないらしい。
「心配ありませんよ。私が死ぬ前に解決します。私はハッピーエンドを見るのが好きですからね」
コー・オウジは皴を曲げて笑った。この人はハッピーエンドという言葉をよく使っていた。
更に時は流れ、ポッポル達は四千世界の歌を色々覚えた。コー・オウジが教えてくれた歌は楽しい感じで、ローゲンが教えてくれたのは勇ましいものが多かった。ラミアは教えてくれなかった。それから、器用な者達がウェディング・ドレスに似た服を作って皆が着るようになったのだが、それを見たラミアは何やら難しい顔をしていた。綺麗な服を自分だけで独占したかったのだろうか。
『彼』と呼ばれている神は静かだった。ローゲンから聞いた伝説では派手に暴れまくって殺しまくっているので、本当に同じ神なのかと疑わしくなることがある。それとなくローゲンに聞いてみると、オアシス会の仲間が出来て、随分と長い時間をかけて穏やかになっていったらしい。でもたまに暴れるので常に用心と覚悟が必要なのだそうだ。ハルモの住民はとても運が良かったみたいだ。
四千世界はどんなところなのだろう。色々な話を聞いたけれど、ポッポルにはまだうまく想像出来ない。ハルモは良いところだが、その変化のなさにポッポルはうんざりすることもあった。きっと殆どの住民が同じように感じ、記憶を何度も捨ててやり直してきたのだろう。
だが四千世界には新しいものがあるのだ。見たことのない生き物が、植物が、大地が、人が、戦いが、待っているのだ。
その期待をポッポルが語るとローゲンは言った。
「そうだな。良いものも沢山あるし、悪いものも沢山ある。それを自分で体験して、味わってみなよ。少なくとも、力と意志があれば欲しいものを掴み取れる世界だ」
「なるほど。いつもディンゴはいいことを言うな」
神が感心した様子で頷き、ローゲンは「いや俺はローゲンだって。ディンゴの弟子の」と訂正したのだが、何故か嬉しそうだった。
七ローツを過ぎ、バズロッタの侵入はなくなっていた。代わりにバエスクという沢山の紐みたいな敵が入り込んできたことがあった。これには氷技も棍棒もあまり役に立たずポッポル達は驚いたのだが、『彼』があっさり殲滅してしまった。その後追いついたローゲンが必死に神殿へ連れ戻していたが。やはり神は強かったのだとポッポルは尊敬を強くした。バエスクという敵とはちょくちょくぶつかるのだが、大体カザハラが片づけているそうだ。
コー・オウジは益々衰えていった。相変わらず沢山食べては痩せているが、固いものを食べにくくなったため粥主体となっている。心配ないとラミアは言いながら、その顔は心配そうに見えた。
だが、揺れが。
いつしか慣れて気にならなくなっていたハルモ全体の揺れが、ある時から強くなってきたのだ。
「いよいよ近づいたみたいね。四千世界の何処かに」
ラミアが緊張した様子で言った。
世界とは、無限に広がる混沌の荒波に浮かぶ小舟らしい。ハルモもそうだし、四千世界もそうらしい。でもハルモより、四千世界の方が大きな小舟ではあるらしい。
これからハルモとその住民は、四千世界というもう一つの小舟に合流するのだ。新しい大地に、新しい人。新しい人生が、そこに待っている。
ああ。光が。天を指差して人々がどよめいた。
灰色の天が、ペノール山の真上に当たる天が白く輝き始める。その輝きが大きくなって、天に広がっていく。
ああ、変わる。長い停滞が、終わろうとしている。
大きくなっていく揺れに体と心を震わせながら、ポッポルはハルモを覆っていく光に見入っていた。