男は机に向かい、便箋に何かを書こうとしていた。ボールペンで「私は」とまでは書いたのだが、続きの言葉が出てこない。
顔をしかめ、暫く悩んだ末、男は「まあ、いいか」と呟いてペンを置き、便箋をクシャクシャに丸めてごみ箱に捨てた。
「どうせ読む人もいないし、読ませたい人もいない。伝えたいこともないのだ。もし読む人がいたとしても、私に興味などないだろう。意味はないのだ」
殺風景な、狭い部屋だった。書き物のためにノートパソコンを閉じて机の隅に追いやっていたのだが、改めて起動する気力も男にはなかった。
「……。疲れた……」
男は長い溜め息を吐いた。
「もしあの時ああしていたらとか、あっちの道を選んでいたらとか。そういうのは無意味だ。人生は一本道で、やり直しは出来ないのだから」
男は目を閉じて、暫くの間、じっとしていた。
「あの頃は、情熱があったし、怒りがあった。今はただ、疲れた。全てが煩わしく、苦しい。何も考えたくない」
「あの情熱は、何処に行ったのだろう。あの怒りは、何だったのか。私は何が、したかったのだろう」
「インターネットで観た動画を、よく思い出す。冷たい海の底を蟹の大群が移動する映像だった。物凄い数の蟹が海底を埋め尽くして、同じ方向へ移動しているんだ。多分、生きるためなんだろう。それを、鮫だったかエイだったかが、上から襲ってバリバリと食べていく。好き放題に食べられながらも、蟹達は移動していくんだ。多分、あれが生きるということなんだ。必死に生きて、死んでいくんだ」
「そこらにいる小さな雀だって必死に生きている。はた目からはのんびり優雅に見えても必死なんだ。野良猫だってそうだ。生存競争を戦い抜いて、弱い者、弱った者、運の悪い者、適応出来ない者は死んでいく。それだけのことなんだ」
何処からかバイクの派手な吹かし音が近づいてきて、遠ざかっていく。
男にとっては別の世界の出来事だった。
「私は結局……何かを成せたのだろうか」
「いや……生まれて生きて、死んでいく。それだけのことなんだ」
男は目を開けて立ち上がり、キッチンでコップに水道水を注いだ。
小さな紙箱を開封し、中身を取り出す。PTPシートに入った赤いカプセルが一個だけだった。
一緒に入っていた注意書きの紙片を開く。赤い太文字で幾つかの文が強調されていた。
「ありがたいことだ。ただ、ありがたい……。苦しまなくてもいいなんて。痛くもないなんて」
「誰も傷つけたくはないし、傷つきたくもないのだ。憎みたくないし、憎まれたくもない。人の醜い面を見たくないし、自分の醜さを見たくもない」
「悪意を受ければ動揺し、善意を受ければ気が重くなる。心に波が立つだけで、苦しいのだ。脅かされる。頭にへばりつく。言い訳を必死に考えようとしてしまう。延々とその繰り返しだ。強くはなれない。どんどん弱くなるだけだ」
「正しく生きられるのなら、そうしたかった。人間として、正しく……。だが、無理だった」
「許しを求めている訳じゃない。理解も期待していない。ただ……どうしようもないだけだ」
「本当に、ありがたいな……」
シートの包装は硬かった。男はハサミで切って中のカプセルを取り出し、口に入れた。コップの水と一緒に飲み下す。
明かりを消し、ベッドに横たわる。毛布をかぶって静かに目を閉じる。
何処かでサイレンの音が聞こえる。救急車か、消防車だったか。
男にとっては、別の世界の出来事だった。
「結局、私の人生は何だったのだろう。どうして生まれたのだろう。私の人生の意味は……」
「いや。生まれて生きて、死ぬ。それだけのことだ。ただ、それだけだ」
男はもう、喋らなかった。