そのレストランは丘の上にあった。テラス席からは夕暮れに染まる町が一望出来て、男は感嘆の息を吐いた。
随分と長く住んでいた町なのに、こんなに美しいことに気づかなかったなんて。
初秋の涼しい風が首筋を撫でて心地良い。初めての店だったがテラス席にして良かったと男は思った。
他の客は見当たらなかった。人気の店らしいのでもう少し経ったら客が増えるかも知れない。
料理を待つ間に改めて分厚いメニューブックを読み返してみる。落ち着いた雰囲気のシャレたレストランであるが、メニューの内容はバラエティに富んでいた。お高いステーキや寿司から定食にちゃんぽんに牛丼、そしてデザートにはチョコレートパフェやクリームソーダまで揃っている。
ファミレスみたいだ。でも手間がかかっていそうな料理もある。このレストランのシェフは物凄く大変なのではないだろうか。それとも、繋がりのある他の店から届けてもらっているとか。
ミルクセーキ。子供の頃、母と一緒に図書館に行った時に同じ建物内にあるレストランでたまに飲んでいた。その隣にあるクリームソーダもだ。当時の男にとっては、夢のような飲み物だった。
メニューには男にとって懐かしい品が多かった。学生の頃によく通っていた牛丼屋とちゃんぽん屋も思い出す。そうそう、牛丼よりも焼き鳥丼の方を食べていた。
あれから、随分と時が過ぎたものだ。
ウェイトレスが料理を運んできた。
「やわらかビーフのオムライスグラチネとチキンカツでございます」
「ありがとう。いただきます」
男が礼を言うと、ウェイトレスは微笑して戻っていった。
やわらかビーフのオムライスグラチネは、男が三十才くらいの頃に近所のファミレスで食べていたものだ。毎週金曜日、仕事終わりに通うのが男の習慣になっていた。何年かしてその店は潰れてしまい、パスタ専門店に替わってしまった。
さて。今目の前にあるオムライスはデミグラスソースに浸っておりチーズの香りがする。ブロッコリーがソースに浮かんでいるところも昔食べていたものに似ていた。スプーンでオムライスの端を削り取り、舌を火傷しないよう何度も息を吹きかけてから食べる。
卵の優しさにケチャップの酸味、まろやかなデミグラスソースの風味が交じり合い、男は「うん」と頷いた。懐かしい。昔食べていたものにそっくりだ。いや、記憶にあるオムライスよりも洗練された味わいであるようにも思えた。もう二度と食べることはないだろうと思っていたのだが。
と、チキンカツも食べねば。社会人になって二年目だったか。出張で行った先の定食屋のチキンカツ定食が妙に美味かったことを思い出す。あの味は何と表現すべきだろう。パサパサしてなくて、ジューシーで、ちょっと癖があって……。言語化出来ないまま年月が過ぎ、店の名前も忘れてしまったため探しようもなかった。
ソースは控えめにかかっている。まず一切れ口にすると、衣はしっとりした感触だ。人によってはサクサクした方がいいと言うだろうが、男はこちらの方が好みだった。鶏モモ肉はジューシーで、口の中に妙な風味が残る。
ああ、これだ。こんな味だった。この癖のある風味。当時はうまく表現出来なかったが、今なら少しは分かる気がする。貝類やエノキダケに似た旨味。でも実際にそういう材料を使っている訳でもないのだろう。油……だろうか。やっぱり分からない。
チキンカツも男の記憶にあったものより美味しい気がした。
どちらも食べ終えて、男は満足だった。嘗ての味をまた体験出来たのだから。そして、今後も味わえるのだから。
もしかするとこのレストランは、各地のちょっとマイナーな逸品を出してくれる店なのかも知れない。
最後に追加でミルクセーキを頼み、幼い頃に飲んだものと似ているかは昔過ぎてもう分からなかったが、しっかりと甘みとコクがあってこれも美味しかった。
会計に向かう前にもう一度町を見下ろす。陽が落ちてあちこちに灯る明かりを見て、男は改めてこの町に住んで良かったと思った。
レジでは店長の札をつけた年配の男が対応した。
「良い店だな。また来るよ」
男が言うと店長は上品な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お会計は三千八百円になります」
男はズボンのポケットに手を入れ、それからニコリとして告げた。
「どうも財布を忘れてきたみたいだ。ツケにしてくれないか」
店長が鬼の形相に変わり絶叫した。「食い逃げ糞野郎は死ねっ」店の奥から棍棒と包丁を持ったエプロン姿の屈強な男達がゾロゾロ出てきて男を滅多打ちにして、全身の骨が砕けて潰れた肉塊となった男を両足首を縛り天井から逆さ吊りにして血抜きしながら八方からシャカシャカシャカシャカと包丁を閃かせ数千枚の見事なスライス肉にして骨と一緒に大きな鍋にぶち込んでトロトロに煮込んだ。「ああもう我慢ならぬっ。人間は皆殺しだ」店長が叫ぶと店の奥から棍棒と包丁を持った店員がゾロゾロゾロゾロ無限に溢れ出し町を襲い国を破壊し大陸を覆い海を泳ぎ地球上を埋め尽くした。
三日後には、丘の上のレストランから見渡せるのは不毛の荒野だけとなっていた。